文化としての日本仏教

私の敬愛するK2氏から紹介された「ブータン仏教から見た日本仏教」(今枝由郎著、NHKブックス、ISBN4-14-091032-1 C1315)を読んだ。
買ってきて読み出したらグングン引き込まれ、一気に読んでしまった。
そうだったのか、...
今まで、仏教に対して漠然と抱いていた疑問は、かなり払拭され私の知的好奇心は、かなり満足させられた。
勿論、私はこのブログで宗教を論じるつもりはない。今の日本の仏教は宗教としてよりは、文化として見るべきであり、私としては仏教を哲学として興味がある。
しかし、僧侶や檀家が唱えるお経は、音としての響きは良いかもしれないが、私にとっては意味不明のものである。
しかも、この本によれば、日本の経典はインドでサンスクリット語などに記されたものを、中国語に訳されたものであり、音をそのまま字に当てはめたり、意訳されたり、中国の文化に合わせ歪曲されたり、誤訳されたりしているものであるとのこと。輪廻転生より先祖崇拝的要素が強いのはそのためであろう。
さらに、日本仏教が宗教として根付いていないのは、原典から日本語に訳されたものが無いことにも原因があると指摘している。
少し、引用してみる。
本の中で引用されている、山口瑞鳳氏が1996年に東京大学で講義した内容:
「日本仏教の現状ほど嘆かわしいものがあるでしょうか。京都の観光寺院は拝観料とか云う木戸銭の目減りに目の色を変えて、言を左右にしております。大体寺院の堂塔伽藍建立の目的は、人々をそこに集めて仏教に導き入れる機縁をつくることであります。視覚などを通じて心にまで働きかけ、人々を仏教徒に変えるわけですが、働きかける僧侶が既に僧伽を解体して戒律もなければ、三学もないのです。僧衣も僧形も、宗門の修業過程さえも宗教法人としての特権を保って生活するための偽装であり、スタイルである人が大部分を占めております。僧形をして別の俗事で儲け仕事をしている人々に菩提心などあろう筈がありません。破戒無愧を意識することさえなく、仏像の前で手を合わせてみせているいるのではないでしょうか。」
とある。私もウスウスそのような僧侶が多いのを感じる。
さらに象徴的なのは、ある寺の住職である、高橋芳照氏が『寺門興隆』2002年8月号で述べたという「でも助かりますね。お経は漢文ですからどこでやめてもそこが終わりなんだ、と聞いている方は思うでしょうから。くれぐれも和文経典なんかは使いませんように。」という言葉に象徴されていると思う。
しかし、この本は、日本仏教批判本ではない。
仏教の源流から見て、日本仏教がいかに世界の仏教と違っているかを示しているものの、どちらが正しいかを問題にはしていない。むしろ、日本文化としての仏教のあり方を正しく認識するための本であろう。
私にとっては、仏、菩提、菩薩の意味や、ある宗派の戒名に付く「釈」の意味などの疑問が氷解された。
お勧めの本である。